暖かい場所にいるような柔らかく不思議な感覚が、グレゴをまどろみから引き戻した。彼がそっと目を開くと、薄暗いながらも天幕の天辺は当然目に映った。そのいつも通りの視界にもう一つ映る、何かの光。
「……あー?」
夕飯前に一眠りしようと思って自分の天幕に戻り簡易的な寝台に身を横たえたはずだが、灯りを点けた覚えは無い。いつも通りではなかった寝起きの光景に、思わず間延びした声をあげた。
「……すまない、起こしたか」
それに反応したのか、光のすぐ傍から耳によく馴染んだ声が返ってきた。グレゴが緩慢な動作で声の方を向くとそこにいたのは、ロンクー。今日に限って天幕の割り当てがこいつと一緒になるとは、と昼間に考えていたのをグレゴは思い出した。ロンクーは寝起きを覗き込むようにしつつ、寝台のすぐ傍の椅子に座っていた。
回復の杖を掲げながら。
天幕の中の見慣れない光は、杖から発せられたものだった。よく分からない光景に、グレゴの疑問はそのまま声になる。
「……何してんの?」
「……見て分からないか」
「杖だな」
「そうだ」
「なーんでお前、杖なんか持って」
ロンクーが手にしているのは、確かに僧侶やシスターが使うような回復の杖であった。抜き身の剣ではない。この光景なら、普通は杖ではなく剣を持っていて「いつまで寝ている」だの、「手合わせをしろ」だの言ってくるのがふさわしい……はずだ。
「お前使えたのか、これ」
しかも杖の先に飾られた宝珠は、淡緑の光をしっかりとたたえている。グレゴが指を伸ばしそっと触ってみると、指先にほんのりと暖かみを感じる。治癒作用が働いている、という動かぬ証拠ではあった。目が覚める直前に感じた不思議な感覚は、どうやらこの杖のものだったようだ。
「チェンジプルフとやらの……効果かも知れない」
それを聞き、なるほどね、とグレゴは呟いた。
チェンジプルフを使うと、隠れていた素質が身に付くのだという。つい先日それを手にしたばかりのロンクーに備わっていたのは剣の道の他に、騎竜の術。そしてもう一つは、戦場を駆ける身軽さ。体系的にはガイアやアンナと同じもので、鍵開けや足回りの技術と共に「杖を使う力」も含まれていた。
「って、そうじゃなくて。それもあるんだけどよ」
素質の話は分かるが、何故わざわざ杖を持ったロンクーが自分の横にいるのか。だいぶ意識がはっきりしてきたグレゴが腕をぐっと伸ばそうとする。
「! 待て、あまり動くな」
その途端に、ロンクーが少し慌てたような、心配するような表情を見せた。
「……怪我、残っていただろう」
ロンクーの指摘に、グレゴはぎくりと肩をすくめる。
「あらー、バレてたか……」
それから腕を再び下ろし、大人しく杖を受けておこうと寝台に沈むように身体を預けた。もっとも、沈むほど敷布の厚みは無かったが。
その怪我の元となった戦いは、昼間に起こったものだった。屍兵に占拠されていた古い砦の奪還作戦。屍兵の掃討には成功したが、その砦は迎撃に特化していたのか罠や仕掛けが大量に残っていた。結果、敵味方問わず多くの兵がそれらに巻き込まれてしまい、死者こそ出なかったものの怪我人がいつにも増して多かったのだという。グレゴとロンクーも、今回の混乱の中で傷を受けている。
「嬢ちゃん達もてんてこ舞いだったし、薬塗ったから大丈夫だと思うんだがねぇ」
特にグレゴは後衛の人間を守ることに追われ、命に関わるようなものは無いが複数箇所に傷を負った。癒し手の数が間に合わない部隊は、代わりに特効薬で凌ぎきった。現地で治療を受けそびれた何名かは、野営地に戻ってから改めて癒し手の所へ行ったようだ。
「そういう問題ではない」
ロンクーの服の袖からは、腕に巻かれた包帯が見え隠れしている。
戦場でも普段の生活でも、困っている人間がいればついついお節介を焼いてしまう。そもそもグレゴがクロム達と共に行軍する理由も、その延長線の出来事と言っていいだろう。そういった良くも悪くも言える「人の良さ」をロンクーに咎められることも、今回だけの話では無かった。もうグレゴの性分のようなものなので直すにも難しい。むしろ他人を見捨てるような事態を招きたくは無いので、そのくらいなら毎度小言を言われる方がましなのである。
「目聡いっつーか、何つーか……」
それでも、ロンクーが自分を気に掛けてくれること。グレゴは、素直に嬉しかった。
「……あまり無茶をするな」
ロンクーは溜め息のようにぽそりと呟くと、杖をそっと下ろした。それと同時に杖の宝珠から発せられていた光がすっと尾を引くように消え、天幕の中はいつも通りの薄暗さを取り戻した。グレゴは治療が終わったのを確認して、のそりと上半身を起こす。寝る前に痛みを感じていた腕をぐるりと回してみると、今は何の支障も無く動くようになっていた。
ふと、ロンクーの顔を見ると。
「その言葉、お前にそっくりそのまま返してやるよ」
ロンクーの額には、汗が滲んでいた。呼吸音も良く聞いてみると普段より荒いのが分かる。リズやマリアベルのように、癒し手として適正がある人物は顔に出るほど疲れないのかもしれないが、杖で誰かの傷を回復させるという行為が、代償として体力を見た目以上に使うのだと、グレゴは改めて認識する。ロンクーは魔法剣を手にすることもあるが、魔力の量は「剣を使う者にしては多い」という程度だ。その彼が、わざわざ不慣れな杖を持って回復してくれた、ということ――。
そこまで考えて、彼は礼が後回しになっているのに気が付いた。
「何にせよありがとな。助かったぜ、ロンクー」
グレゴはロンクーの顔にすっと手を伸ばし、手の甲で額を拭ってやった。普段は女性からも、なるべく男からも触られるのを避けているが、この時は特に嫌がる様子も無く、ロンクーは安心したような表情でひとつ息を吐いた。
「ま、プレゼント代わりにゃちょーどいいかぁ」
「……プレ、……?」
独り言のつもりだったグレゴの呟きにロンクーが疑問の声をあげる。
「あー……お前も知らないんだっけな」
グレゴは手を退くと寝台から足だけを下ろし、ロンクーの正面に腰掛ける格好になった。
「今日が誕生日なわけよ、俺。1の月、27の日」
この日は紛れも無く、グレゴ自身の誕生日である。
「今日、か」
ロンクーは意外だとでも言うように、その言葉を繰り返した。この反応を見るに、彼は全く持って知らないようだった。くるりと杖の軸が手の中で回り、繋げられている飾りがそれに合わせてちりんと音を立てて揺れた。
「……俺は、何も用意していないぞ」
さほど誕生日の祝い事に興味が無いロンクーでも、何か贈り物をするという習慣があるのは知っている。今回は今この場で聞かされたために用意も何も、心構えすら出来ていなかったようだ。かと言って、グレゴは責めようなどとは微塵も思っていない。
「ま、誰にも言ってねぇしなあ」
ロンクーの低く通る声はいつも通りのはずだが、心なしか気落ちしているように聞こえたのは気のせいだろうか。そういえば今日に限って、一緒に話をするロンクーの表情がくるくると変わっている。そのことに気付き、グレゴは自然と笑みを漏らした。
「構わねぇさ。俺の傷を見つけて治してくれたんだしよ」
怪我の程度はそれほどでも無かったが、不慣れなことをしてまで治しに来てくれたのは何より有難い。
「良けりゃー、おめでとうの一言でいいから貰えれば嬉しいんだけどね」
何歳になっても祝われるのは悪いもんじゃねぇんだぞー、と付け加えると、グレゴはロンクーの反応を伺う。
「……グレゴ」
「ん?」
どこか非常に言い辛そうにしながら、ロンクーはそっと椅子から立ち上がる。
「……少し、……俺の方を……向いて、いろ」
ぎこちなく言いながら杖を傍の壁へ立て掛けると、彼は寝台に座っているグレゴに近寄り、自らの片手と片膝も寝台についた。グレゴの膝に半分乗り上げるような体勢になり、馬乗りにでもなりそうなほど身体が近付く。ロンクーが手を伸ばすと、グレゴの頬から耳にかけて手の平と指が触れる形になった。
「っな、ロンクー……近」
酔ってはいないだろうな、何をするつもりだ、と言わんばかりにグレゴは焦る。一人分以上の重みを受け止めた寝台がきしっ、と音を立てた。そして何かの覚悟を決めたようにロンクーはぎゅっと目を瞑り、さらに身体を前に乗り出した。
ほんの数秒ではあったが、唇が重なり合う。
ロンクーが身体を退くと、当然ながら唇も離れる。数秒ぶりの呼吸に、グレゴの肩が上下した。
「……えーっと」
理解できないわけでは無いが、これは。
あまりに突然のことで若干思考が止まっているグレゴは、自分の身体に乗り上げたまますぐ目の前にいるロンクーを見やった。対するロンクーも、きょとんとした顔でグレゴの顔を見つめていた。まるで、自分が今何をしたのか抜け落ちて気付いていないかのように。
「っ……これ、は」
そうかと思えばようやく自分の行動を理解したようで、突然うろたえ始める。今日のこいつは本当に面白いな、とグレゴは回らない頭でぼんやりと考えた。
「……もう行く!」
やけになったような声でロンクーが言うと、立て掛けてあった杖をがしりと掴む。グレゴがはっと我を取り戻した頃には、既に天幕を出ようとしていた。
「っだ、ちょ、待てって!」
慌てて寝台を下りようとするグレゴに構わず、ロンクーはばさりと出入り口の布を開く。
「夕飯まで、まだ時間がある……寝ていろ」
ロンクーは肩越しにグレゴの方へ顔を向けたが、決して視線を合わせようとしない。顔は逆光でグレゴから見え辛かったが、普段の冷静な性格からは思いも寄らないほど、頬から耳まですっかり紅潮していた。彼はそのまま背中を見せ、半ば走るようにして天幕を出て行った。
祝われるどころか。
「……『おめでとう』だけで、良かったんだがなぁ」
何をどうやったら、その言葉があんな行動になるのか。
乱暴に下ろされた布がまだ揺れを残している中、一人残されたグレゴの声は誰に聞かれることも無く消えていった。深い溜め息と共に、先程と同じ位置に戻るようにしてどさりと寝台に倒れ込む。真意は分かりかねるが、ロンクーはグレゴを嫌いな訳ではないだろう。むしろ一般的に考えて、恋人同士であるか、する方が相手を懸想しているか。そういった場合に初めて、そういった行動は為されるのである。
つまり、ロンクーは。
「この後、どんな顔してあいつに会えばいいんだか……」
まだ僅かに残っている予想外に柔らかく暖かい感触。困ったようにグレゴは一人呟いたが、その顔は頬がすっかり緩んでしまっていた。